昭和四十八年六月九日 御理解第三十三節
「お供え物とおかげは付物ではないぞ。」
お供え物とおかげは付物ではない。そんならおかげはどういうものに付くのか。結局お供え物とおかげは付き物では無いけれども真心におかげがあるとですから、そのお供え物が真心の表現であるとき、それはだからおかげの対照になる訳です。
だから何処までも真心の追求である。私は真心で思うとりますと云うても、そんならどの位思うとりますか。こんなに思うとります、思うとりますとこう云うてもです、だからそれをやはり表現するものはお供えじゃないでしょうか。
昨日は佐田さんところのおじいちゃんの百日祭でしたから、もう本当に神様の一分一厘間違いなさと云うものをお祭りの上に感じることが出来ます。むそれは驚くばかりです。
例えばね、偶然と云った様なものがそう度々重なるもんじゃない。と云う様なことは科学的に証明されてるそうです。
そのそういう例えば偶然、例えばふがよかったですねと云うことがずーっと重なってみてご覧なさい、もう本当にそこに神様のおかげをね、神様のような働きを実感せずにはおれません。
だからそういう働きと云うものがです、どうして生まれて来るか、私は佐田さん一家の真心がそういう普通で云うならば偶然と云ったような事がずーっと重なっていると云う様なおかげになる。
私はあちらに参らせて頂きまして、もう色々と教えられること、又は色々と改めて神様を再認識と云うか改めていよいよ神様を頂くのです。参り合わせた者一同も神様のお働きの間違いなさに只々驚きます。驚きますと云うより今頃それが慣れっこになってそれが当り前の様に感じるような場合があるかも知れません。
私があの入神の儀と云うことを申しますね。例えば名人、達人と云った人達がしたりなさったりする事が素晴らしいと云う場合入神の儀と。神様が入って下さると云う意味なんです。まるきり神様だと云うのです。
私はここでそういう皆さんの真心と云うものが私の取次者の上に通うて来てそれを神様へお取次させて頂いてその答として行われ現れてくる様々な働きと云うものは、もう合楽の場合入神の儀だと思うのです。
もうそれは本当に驚くばかりですよ。もうその内容はあまり沢山ですから、いつもの事で・・・本当に驚いてしまう。もうそれこそ一秒間の隙もない、時間で云うなら。だからそういう働きの中にある。後で御直会になりました時にもう色々沢山御馳走出しておられた。まあ、出ること出ること、もういろんな本当に山海の珍味をとてもああたそげん食べきるもんかと、とうとう私は数えました。そしたら十一種類有りました。後から御飯やら漬物やら入れるなら十三種類と云うことになりましょう。勿論その一部しか食べきりはしません。
けれどもです、いわゆるお供え物とおかげは付き物ではない。そこは十分承知の事。こげんしたからおかげ頂くと云うことじゃない。けれども止むに止まれんその真心が、思いがそういう形に現されるから、例えば昨日百日祭のお祭りを拝まれた方達がみんな思われただろう様なです、霊様も本当にお喜びだろうと実感できる様なお祭り、又それを奉仕した者も有難い。家族の者も又参拝し合わせた者も、神様の働き本当にこういう有難い霊様のお祭りに合わせて頂いてと皆んなが有難いことになって来る。有難い思いにさせられる。
初めから最後までそれを感ずる。ですから、それはどういう事かと云うと、お供え物とおかげは別物である。まあお供物とおかげは引き換えではない、付き物ではない。
真心とおかげは付き物である。そんなら真心はどの様にして表現するかと云うとです、只口やら心の中でこう思うとりますと云っただけでは、その真心の真実と云うものが出てこない。
私はだからお供えは云うならば、真心の表現であると同時に真心の実証である程しのものでなからなければならないと思うのです。その真心におかげがある。
ここ二・三日この事に触れますけれども、四次元世界の神秘と云う、昔の宗教家、聖人と云う人達が悟りを開くという、それを科学的に分析して、悟りとはこういうものだと、云うなら神様仏様を拝まんでも、宗教はしなくても悟りは開けると云う様なことを話しておられる。工学博士ですからそう云う面から説いております。
けれどもそんなら成程理屈は私達が成程成程と思う様なことですけれども、そんなあぎりぎりのところはどういう事にならなければならないかと云うことを、ここに挙げてあります。
その秘訣として一つ「無欲であること」実はその無欲になること自体がどんなに悟りを開いたって難しいのです。
私共が信心させて貰って、以前合楽の合言葉の様に言われておりました、もう限りなく美しくなろうと、その限りなく美しくならせて貰う稽古を日々させて貰う。
ここで謝恩祭なんかを仕えられると、もうそれこそ神前を埋め尽くす様なお供え物が集まってきます。けれどもこの時だけはです、もうそれこそ、一つのお供え物でも神様の御物として、もうそのままをお広前に持って来る、いわゆる神様へお供えをする、そういう風にみなさんがなさいます。
少し汚い心でこれいっちょうちにもろうとこうかと云った様な事ではもうおかげにならんて。年に一回お祭りを仕えるのじゃないか、だからせめて今日だけはもういよいよ無欲の状態でお祭りを奉仕する。だから合楽で仕えられる謝恩祭は有難いのです。
いつもかつも無欲になると云うことは仲々難しいけれども、しかも無欲になることがこういうおかげが受けられるんだと、無欲になると云うことがこういう又有難い事だと分からせて頂ける稽古なんです。
「テレパシーを通じようとする相手と通じ会っている事」これも仲々難しい。例えばここで云うならば私と皆さん、云うならば取次者と皆さんと心が通じ会うていなければならん。それが又神様へ通じる。又その元を辿ってお声が流れて来る。
これは今はそういう事が段々希薄になりましたけれども、久富繁雄さんが私の方の御用をして下さる十何年前はです、もう一生懸命にそこんところの思いを募らせなさる。畑で仕事をしよんなさっても、これは親先生がどうかあんなさるとじゃろうと自分の体の上で感ずる。だから仕事着のなりでやって来ると私がお腹が痛いとやすんでる時なんです。その様に通じ会う稽古と云うものがなされなければいけん。
それは段々思いが少なくなって来るとそれは通わん様になって来る。思い思われると云う切実心と云った様なものの稽古がやはり繰り返しなされる事。それを私はお道では、取次の働きを受ける。そこでそのお取次を願う。例えば私の事を皆さんが親先生とこう云う。 親と子の云うならば交流と云った様なものが出来る。これも今は段々遠くなってきた感じですけれども、共励会等で秋永先生が今はああして車ですが、電車バスを利用してやって来ると云う時分、そしていろんな発表をする。 もう親先生がその朝説いた御理解を聞いとった様なお話をするですね。だからみんなが、顔見合わせてからびっくりしよった。と云う程しに通うておるです。
私と秋永先生が例えば、会いたいと福岡におる時分に思うとです、もう何処かで必ず会うです。これはもう昔話になりましたけれども、不思議なことでした。その位に通うておった。
「執着を去ること」と書いてあります。これも難しいですね。例えば私はああいう美術品とか骨董品が好きですから、好きなものがどんどん集まって来る。集まって来るからと云うて、そんなら例えば修行生の方達がそれを粗相して割ったり破ったりして「そらしもうたの」と私は言うたことも思うたこともない。
それは成程有ります、沢山。けれどもあれが例えば、盗難に会って全部なくなっても、それは惜しかったとは恐らく一つも思わないでしょう。
けれども、初めからそうではなかった。段々稽古をさせて頂いておるうちに、そういう執着心と云うものが無くなってきた。
悟りを開くと云うことはそういう事が出来るようとまあ云ってますけれども、実を申しましたら今申しました様なことがです、果してそんなら頭の上で理屈の上で分かって悟りを開いたようですけれども、それはそんなら、そういうおかげでは伴わない。
それは多少おかげは伴うでしょうけれども、そんなら御神徳の世界と云った様なものは、それこそかい間見することも出来ません。
只おかげの世界には、そういう事に精進する事に依って、例えば石井喜代司さんが腹を立てんと云うことを本気で行じればそれでもおかげは受けられると云う。しかしそれで徳は受けられん。
その次にですね、最近ここでも云われておる合楽教会と共に助かろう、合楽教会と共におかげを頂こうと云う様な行き方が何故おかげを頂くかと云うことはね、これも高級霊達の協力を得るための、例えば高級霊のここでは四次元と云ってますけれども、五次元六次元いやまだずーっと向こうの神格と云う様なものに触れるおかげを頂くためには、周囲の祝福が得られるものと言っております。
例えば願いと云うことでも、神様がお喜び下さる、祝福して下さる程しの願いに立たなければならないと云うこと。
そこで今日のお供え物とおかげが付物でないと云うことがです、そういう意味で皆さん分かられたとこう思う。
おかげを受けると云うことはです、決してお供え物が沢山したから沢山おかげを頂くと云うのじゃないですけれども、何処迄も求められるのは真心である。その真心の表現がです、限りなく美しくならせて頂く精進、無欲にならせて頂く為の稽古、それを私共が本気でならせて頂くと云うこと。これならばです、百円よりも二百円を、云うならば表現です。又私の真心の実証と云うものがです、千円よりも一万円、一万円がた思うとりますと云う訳なんです。
だから金で云うと、金のある人無い人有りますから、それは例えば云うならお供え物に真心さえこもれば庭の塵までもと・・・
ですから、もうそれこそ庭の小石を清めてお供えにしたと云う人があります。庭の散葉をお供えにした人があります。それでおかげを受けております。
私共でももう、いよいよお賽銭が無い時には商品切手の様なもの、又は皆さんから頂いておった電車の回数券を頂いておりましたお供えに・・福岡の時分・・ ですからそれを一枚づつ切ってはそれがお賽銭と云う場合もありました。
だからもう、金の無いことは神様が知っちゃる。けれどもそれがどうにかしてと云う時に、庭の散葉にもなりゃあ、小石にもなりゃあ、云うなら証紙の様なものにでもなる訳です。もうそういう時には本当にこういう事では相済みませんけれどもと云う真心がいっぱい込められてあるのです。
だから自分の贅沢の事は千円でも二千円でもどんどん使わじゃこて、もう神様の方にはもう真心でさえあればええがのと云うごたる、そういう事ではおかげになりません。真心の実証にはなりません。 どうでもひとつその真心を表す、それがお供えそういうお供えならばです、私はおかげになると思う。
同時にそれはです、日々稽古をさせて頂いて、皆さんがお賽銭を奉られて、又お初穂のお供えをなさると云うことはです、限りなく美しゅうならせて頂くことの為の稽古である。又は無欲にならせて頂く為の稽古である。又は金なら金に執着をしない稽古が出来て来るとです、それがもう炎々として只有難い、勿体ないで出来るようになる。
それがおかげ、云うなら先程から申します、入神の儀と云われる程しのおかげを頂かして貰えれるそれが元になるのです。
私は自分でお祭りを仕えたり御祈念をしたりさせて貰う時の私の御理解にもそれを感ずるのですけれども、はあーこういう事が入神の儀だろうと私は思うです。例えば昨日佐田さんの所でお祭りを仕えた。例えば私がお祭りをさせて頂いておる間に、例えば時計が鳴りどもしたら、もうそれは切腹ものだと私はいつも言うくらいです。そげなこつがある筈はない、私のお祭りに邪魔の入る筈はない。これが私の信念です。
皆さんお祭りした方は、例えば神様から霊様へ移らせて頂いて、それから後取りの方が私に玉串を下さろうとする。立って来る間にチンチン、チンチンと三時を打ちました。そして玉串を上げさせて頂いた。もう一秒間の狂いも有りません。あれは親先生の入神の儀だと思うて貰わにゃいけん。
この様に間違いない働きやらお取次を頂いておると思わにゃいけん。朝の御祈念にそれこそ、そんならここで皆さんがじーっと座っっとってから、只その稽古だけで出来る筈はない。
例えば私の朝の御祈念が一時間、四時から五時にはピシャーッとここに立たせて頂くと云う様な事なんかは、私は入神の儀だと思う。神様が入っておられなければ大坪総一郎の人間的なものでは出来るものではないと思う。
今日もあの様に間違いのない働きの中にお取次を頂くんだと云う、私は確信を持ってです、そして神様が求められるところの真心をいよいよ表していく稽古、そういう稽古をさせて頂く。今日もこの御教えにいよいよ本気で取り組ませて頂くと云うその事に一生懸命ならせて頂くおかげを頂かねばならん。
今日はお供えの事について聞いて頂いた。お供えとおかげは付物ではない。けれども真心とは絶対付物であると云うこと。
お供えは真心の実証であり、又は真心の表現であると思うたら、果してこの十円なら十円のお賽銭に対してです、どの位の思いが込められておるかと何時もその事を心に思わせて頂いて不浄が有るところをお詫びさせて頂いて、・・・
私は御本部で少しまとまったお供えなんかをさせて貰う時には、どうしてもその、はあー自分はもうこの位お供えが出来る様になったと云う様な気が起こります。金光様はそれが一番お嫌い。
そういう様なものは受付なさらないと云う様な事が幾らもあっただから、その様な事があっちゃならんと思うから、私はもうそういう時は神様にもう本当にどこにお粗末不浄があるやら分かりませんから、どうぞそこんところは金光様のお徳に依ってお払いを頂いてお受け頂きますようにと云うお願いをさせて貰うてお取次を願わせて貰いました。と、云う位な慎重さがです、要るんです。
私共が真心と思うておる真心をもう一遍改めてです、検討しなければいけません。その真心におかげは付物です。どうぞ。